そろばんスタジオACEとは

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そろばんスタジオACEとは

そろばんスタジオACEは「さとう珠算塾」の『特別校』です!

何が特別かって?カッコ良くいえば『暗算力の早期上達を目標に、幼児から計算のトレーニングをする教室』なのですが、代表が今までの珠算界の枠から外れて好き勝手やっているだけ、という捉え方もできるかもしれません。

しかし当然「さとう珠算塾」の指導や運営に関してもいらぬ口出しアドバイスするため、だんだん似通った内容になっている側面もあり、はっきりとした区別がしにくいという部分があることも否めません。

『そろばんスタジオACE』と『さとう珠算塾』

同じ人がやっているのに教室の名前が違う!?なんでですか!!

そう、なんて紛らわしいんでしょうね。別に一緒でいいのに…

でも、きっと何か思い入れがあるんでしょうね。ちょっとだけ語らせてください。

3教室 + 2教室

さとう珠算塾は「八木山南教室」「古城教室」「富沢南教室」の3教室です。

先代がリタイアしてから美知子先生と二人で運営してきましたが、6、7年くらい前から有二先生と由香里先生が手伝ってくれるようになったので、私は新しい冒険に出ることにしました。

今までのやり方とは違う方法で生徒を上達させたい。もっと早く、スピーディーで、おもしろく。段階がABCDEの5段階あるなら、1つ飛ばしでスキップしながら進んでいく感じ。そしてはじまったのがACE(エース)泉崎教室です。

火水金の週3回。他は「さとう珠算塾」のお手伝い。でも正直な感想は…うん、俺いらないな。出しゃばってバランス崩してる気がする。もっと違う時間の使い方をしよう。

そして泉崎教室のわずか半年後にサテライトとしてオープンしたのがACE長町南教室です。

つまり、「八木山南教室を主任している美知子先生」と「古城教室・富沢南教室を主任している有二先生」がさとう珠算塾本体で、その特別校として泉崎と長町南でやっているのが私の教室(そろばんスタジオACE)という形で落ち着きました。

 

統一しない理由

経営的な見方で言えば代表は私です。

代表が教室の名前を変えて新しく始めたのだから、名称は統一したらいいじゃないか!ってけっこう言われます。

まぁそれでもいいんですけどね、単純に私のわがままなところが出ちゃってるだけなんですよね。

私の父(先代)の事を知っている生徒は(在籍者の中で)もういないと思います。

ちょうど10年前ですね、引退したのは。ずっと「さとう珠算塾」を支えてきた父は、現在脳梗塞の後遺症で失語症になり、話せない、言葉が理解できない、という状態です。別に「お涙ちょうだい」という訳ではなくて、ここに触れたのはそれが名前を残す理由なだけです。

大会や検定の結果はなるべく父に見せるようにしています。そこに「さとう珠算塾」の文字があると分かるようなんですよね。もし「そろばんスタジオACE」じゃ(・_・?)ハテナ です。だから名前を残してあげたかった、ただそれだけ。

 

それにね、悲しい事に「さとう珠算塾」に「そろばんスタジオACE」は勝ててない。でもいつか全ての部分で圧倒できる日がきたら、その時は名前を統一するかもしれません。

だから本家(さとう珠算塾)の皆さん、父のためにもACEに負けない結果を出してね!

名前は遊び心

新しい教室の名前は『ACE』に決めた!『最高のもの』という意味もあるし、自分の名前に『一』がつくし、『1つ飛ばしの軽々ステップ』というこじ付けも気に入った!

ではなんで「そろばんスタジオ」がついたのか。

全珠連の研究集会という全国から先生を集めて行う大きな研修会があるのですが、私の大好きなある先生が「New style そろばん ガイダンス」という演題で講義を行ったことがあります。

そのタイトルにした理由は、英語・ひらがな・カタカナ、全部入れたいという遊び心。

その研修会は10年以上前だと思いますが、なぜか強く印象に残っていて、せっかくだから私も欲張って全部入れてやろう!ということで「そろばんスタジオ」をつけてみた、って感じです。

ここに深い意味はないのです。。。

 

ちゃんとした棲み分け

厳密にいえば所属する連盟が異なります。

・全国珠算教育連盟に加盟している「さとう珠算塾」

・日本計算技能連盟に加盟している「そろばんスタジオACE」

ですから、各連盟主催の大会に参加すれば所属教室名が変わってしまうことがあります(例として、チャンピオンシップに「そろばんスタジオACE」の生徒が出場すれば「さとう珠算塾」と表示されますし、All Japanに「さとう珠算塾」の生徒が出場すれば「そろばんスタジオACE」と表示されます)。

しかし、検定試験は『会員教場で実施』と定められているため、どちらでもあまり関係かないので心配ありません。

まとめ

簡単にいえば、

有二先生が仕切っているのが『さとう珠算塾』。

修一先生が仕切っているのが『そろばんスタジオACE』。

 

でも修一先生が代表なので、LINEとか各種発信とかは『そろばんスタジオACE』に寄りがち、だからちょっと分かりづらくて迷惑、という欠点が課題です。

だからACEで一本化していけるように少しずつ修正していっています。しかし、ゆーっくりと移行している最中ということで皆様には何かとご不便が伴うかもしれませんが、どうかご理解ください。

 

(おまけ)あるそろばん教室の物語

むかーし、むかし、仙台のある場所に、小さなそろばん教室がありました。

当時はみんなそろばんを習うのが当たり前で、その教室もたくさんの生徒で溢れかえっていました。

先生もたくさんいましたが、その中の1人に、ある高校生のアルバイトがいました。

彼は人見知りでリーダーになるようなタイプではありませんでしたが、『バカ真面目』と揶揄されるほどの素直な性格で、一生懸命教える技術を磨き、いつしか教室を任させるようになりました。

他の教室の先生と比べれば技術や知識は劣っていたことでしょう。

しかしそんな微々たる差は気持ちが埋めてくれます。時には竹刀を握って気合を入れ、選手はみんなでハチマキを巻いて団結し、練習合宿などの多くのイベントで交流を深めました。

若い先生が率いるチームは、年の近い生徒たちと結束して苦難を乗り越え、競技大会では優秀な成績を出し続けました。

しかし、その高校生も卒業とともに銀行員として就職するためにその教室を離れてしまいます。

 

これは、あるそろばん教室の物語。もちろんここで話は終わりません。

高校生の時にそろばん先生をしていた彼は生まれつきの障害がありました。耳が非常に悪く、銀行員という職務上それが非常に負担となって、彼は頭を悩ませ続けることになります。その悩みは何年も解決されずにストレスは日に日に増していきます。

 

そして数年後、紆余曲折ありましたが、彼は元いた場所に戻ってくることになりました。

それが、昭和29年から続く『南小泉珠栄会・保春院前教室』というそろばん教室です。

その教室を任されて、さらに白萩町などにも教室を増やしながら仕事に邁進していきます。

昭和54年には自宅に増築して教室を建て、『さとう珠算塾』という新しい屋号で教室をはじめることにしました。奥さんもお手伝いしてくれたので、人来田や相互台でも教室をオープンすることができ、三人の子宝にも恵まれて幸せな生活を送ったのでした。

メデタシ、メデタシ・・・

ここで物語が終わってしまっては『そろばんスタジオACE』に繋がりませんね。

もう少し話を続けましょう。

彼はそろばんバカとなって仕事に邁進していきます。

専門学校の講師や支部の役員、仲間と運営する競技大会、そろばんにたくさんの時間を費やす生徒へは勉強が疎かにならないように塾で家庭教師を雇ったりもしていました。

たくさんの仕事を懸命にこなしてきましたが、忙しさのあまりだんだんと体が蝕まれていることに彼は気が付きませんでした。

ある日突然『ガン』の宣告を受け、彼は入院することになります。

 

保春前教場 ※保春院前教場。全てがはじまった場所

※この狭い教室でたくさんの生徒がギュウギュウになって練習しました

※前代表の黄金期メンバーの書き置き

※閉鎖時にみんなで真似して書いた、憧れの書き置き

 

彼には3人の子供がいました。

 

長女と次男はしっかり者でしたが、長男は大学に行っていてもフラフラしていて何をやっているか分からず、勉強もせずにアルバイトばかりに精を出すようなバカ息子だったのですが、この時ばかりは暇を持て余している長男に頼らざるを得ません。

彼はそのバカ息子である長男にそろばん教室を任せることにします。

しかし幸運なことに、彼の息子は単純=単細胞=バカだったので、すぐにそろばんバカになってそればかりやるようになりました。

さらに幸運なことにガンも完治し、彼は元気に仕事復帰することができました。

けれど頭を悩ませることになります。何年も経っているのに息子が未だにそろばん教室に寄生してしまっているのです。なかなか離れてくれません。これは困った!

仕方がないので彼は息子のための教室を探すことにしました。

そして彼の息子の初めて自分の教室となったのが『古城教室』です。

その2年後に『富沢南教室』がスタートし、今の『さとう珠算塾』の体制が完成します。

 

その彼のバカ息子こそが、現代表・佐藤修一です。

※彼(父)は2010年に病気のため仕事を引退し、それに合わせて保春院前教室も閉鎖しました。

一般企業に勤めていた次男と、別に働きに出ていた奥さんにも手伝ってもらって、現在に至ります。

 

その後の歴史は…、もう少し経ってから書き足すことにしましょう。